太陽のない季節を標泊する旅びとたち
灰、白、黒・・・・・・無彩色を主にした画面空間に、異形の生きものたちが凝然と佇む。円い顔の真ん中に豆粒のような、メダカのような眼玉を光らせたこれら異形の者たちは、地底とも洞窟とも胎内ともつかぬ昏冥の闇に、発光体となって淡い光芒を漂わせる。男、女、子供、動物、あるいは宇宙人?いずれにせよ、彼らは 遠い見知らぬ国からやって来た旅人に相違ない。漂泊の旅だろうか。私たちを旅の道づれにしようとやって来たのかもしれない。
何処へ行こうというのか?メルヒエンの世界、それ とも幻想の風土へか?おそらくそのどちらでもあり、また、どちらでもない。私たちが誘われるのは、鴨下葉子自身のロマンの世界には相違ないが、むしろ、彼女の情と理が後をめぐってしく対立し、葛藤する修羅場だといえるだろう。
愛の修羅場にはつねに孤独がつきまとう。一見、何の屈託もなく、楽天的で気ままでユーモラスな表情や姿態をみせる異形の者たちつまりは作者の分身たちの愛らしい眼玉の奥にちらつく不安と憂鬱を見逃してはなるまい。このメランコリーを生みだしているの は何か。おそらくは、両極で互いにその重みを競いあう生と死に他ならない。そしてこの両極の危ういバランスを懸命に支えているのは愛そのものではないのか。 そのことを異形の生きものたちは知っている。だれよりもよく知っている。
これまで幾度も絵画の鉱脈を掘り当てようと試掘を 繰り返し、そのつど失意と再起の試行錯誤を体験してきた鴨下葉子ではあるが、いま、不断の努力が結実し、このようなかたちの新しいイマージュの結晶体を採掘し得たことは喜ばしい。原色の太陽を喪った季節のなかで愛の憂鬱を十字架のように背負って、淡い光を漂わす地平をさまよい歩く作者の分身たちが、これから先何処へ向かうのか、それへの期待も加わるだけに彼らの足どりに心して注目したいと思う。
美術評論家(新潟市美術館長)

過去の季節の陰画として
鴨下葉子にとって、一枚の画布の空間は、おそらく、現実のなにかあるものの実体が色彩や フォルムといった絵画的な衣装をまとって現われる「場」ではなく、彼女自身の内部に積層をなしている過去の季節のさまざまなイマージュたちをひとつひとつ掘り起こして、記憶の照明 のもとに照らしだし、そこにもう一人の“私自身”を確認し、検証する「場」であるといえるだろう。
換言するならば、自分が生きてきた日常的な現実の歴史のページを一枚ずつ開いて、過去を 懐しむというよりは、むしろ、そのような生の現実の表側からは見えない心の陰画紙ともいうべきものをひとつひとつ現像してみることが、彼女の作業なのである。
折々の心理的な現象が個人の歴史の、いわば秘められた部分、あるいは生の現実の陰画を形 づくっているわけだが、この陰画紙に感光しているさまざまな風景をひとつのロマンとして焼付け、画布の空間に現象することができるのは、すぐれてポエティックな感性の持主だけであ る。鴨下葉子は、まさしくこの感性の所有者として、彼女の内画の歴史を形づくってきた生の現実の際画をロマンティックな心象風景として画面空間に浮かびあがらせる。
その現象の仕方は、必ずしもいわゆる西欧近代絵画の手法に即してはいない。彼女が長い時をかけてみずから開発してきた彼女自身の資質に適合したユニークな手法なのである。中略・・・ このようにして描きだされる鴨下葉子の絵画のありように、私たちがどのような絵画イズム や様式を当てはめてみることができょうか。私たちは、ただ、彼女の分身たちの自由な振舞い に、無心の遊戯に、彼女の歴史的現実の陰画の部分がどのようなものであったかを追体験することで、彼女の夢とロマンを共有するという幸せを持つことができるのである。
新潟市美術館長(美術評論家)

